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東成瀬村の誕生

村のおいたち

 宝亀年間に「酢川越」の要路ができ、また陸奥の胆沢城と雄勝城を結ぶ唯一の連絡通路であった「手倉越」からも既にこのころ先祖が成瀬川沿いに居住していたとされる。

発見された記録の中で最も古いものは、鎌倉時代のもので、これら文献によると、文保元年(1317年)奥州栗原郡金成村より菅原家の祖、左太夫が土着し手倉川原村を開いたとされる。

このころ秋田地方は、秋田氏、橘氏、小野寺氏、由利氏がおさめていましたが、東成瀬村は小野寺氏の所領であった。 しかし、元和元年(1615年)に1国1城制となってからは、佐竹氏の所領となり、田子内村、岩井川村、手倉川原村、椿川村、桧山台村にわかれていた。

このころ、雄勝郡を7郷に分けて親郷を設け、当時の親郷は狙半内(現増田町)で、田子内はその支郷であった。

東成瀬村は、それまで平鹿郡の管下にありましたが、寛文5年(1665年)、雄勝郡編入され、この時から田子内が親郷となった。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、秋田県となり、これまでの親郷、肝いりの制度が廃止され、新たに戸長制度がしかれ、当時の戸長は、荻の袋(現増田町)に置かれた。

明治9年11月(1876年)手倉川原村、椿台村、桧山台村が合併し、椿川村となった。
明治11年7月(1878年)、戸長事務所が「役場」と改称され、同16年(1883年)椿川村、岩井川村が連合し、役場を岩井川に、さらに翌17年(1884年)湯ノ沢、吉野(現増田町)が田子内役場の管轄から分離した。

明治21年4月17日(1888年)の町村制の発布にともない、同22年4月1日(1889年)、田子内村・岩井川村・椿川村が合併し、東成瀬村として村制が施行された。初代の村長は平良の部落長をつとめた平良直松氏であり、県知事の許可を得た5月10日に村長に就任した。

 

初代村長  平良 直松氏

平良に生まれて手広く農業をしていたが、特に養蚕の新しい方法を先進地から取り入れるなど、養蚕の発展に尽くし、繭の生産量の画期的な増産をなしたという。人望厚く、初代の村長に推挙された。

そのころの村は、明治9年の記録では戸数の合計528軒(うち、農業戸数399軒)、人口3001人であった。

当時の主な産業は明治18年(1885年)の記録によると、葉たばこ、葉桑、葉藍、炭焼きで、特に葉たばこの生産量は雄勝郡の82%を占め、群をぬいていた。

その後の戸数と人口の変遷は大正12年(1923年)には697軒・4596人、昭和8年(1933年)では750軒・5222人であり、戦前は増加していたが近年は減少傾向にある。

 

東成瀬村